偏見で語る世界史

遊牧民視点とか雑記とか

重商主義いろいろ

昼のツイート関連で重商主義にもいろいろあるよという話。今回はあまり偏見は入っていない。

 

西ヨーロッパが近代的国家を成立させるにあたって国家財政の強化は不可欠なものであった。この過程でイギリス、フランス、ドイツなどにおいて理論の面で重要な役割を果たしたのが重商主義である。この重商主義という言葉を聞いて、どのような印象を持つだろうか。おそらく商業を増強することによって国力を増強するという印象を持つだろう。それは間違ってはいないのだが、実はより幅広い意味を含んでいる。まずこの重商主義の定義について説明する。重商主義とは国家の介入により貨幣獲得を増加させ、国家の発展を目指す政策である。

要するに、国家の介入により貨幣獲得量を増加させる、という点は共通しているがその手段としていくつかのパターンが存在するのだ。

 

大別すると重金主義、貿易差額主義、そして産業保護主義である。

 

重金主義は、もはや政策として特筆するのも馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことだ。スペインでよく見られたものだが、国内または海外植民地からの金銀の流入により国家財政を強化していこうという政策である。しかし16世紀スペインはこの政策をとりながら17世紀以降急速に衰退していった。スペイン衰退の原因としては王室による浪費は事実として存在するが、重金主義が金銀そのものを入手することに頼りきり、それを継続的に生み出す機構に欠けていたことが最大の失敗点であった。

 

この失敗を継続的に生み出せる機構の形成という形でバックアップしたのが貿易差額主義だろう。国家の収入を増大させるためには、国家に流入する貨幣の量が流出する貨幣の量より多ければ良い。とすると、輸出量が輸入量よりも多ければ良い、という発想である。今の目線なら当然だが、収入を増やすための手段の少なかった当時としては国策として国家を成長させる上でかなり画期的なものであったはずだ。実際にこれを実行した国家にはイギリスおよびフランスが代表例として挙げられる。

 

しかしこの貿易差額主義にも少し不完全な点がある。輸出を増大させ輸入を減少させると言っても、関税の調整によりこれを行うだけでは無理がある。自国の資本がなければどうにも輸出を増大させることができない。先に国内産業の発展したイギリスやフランスならいざ知らず、発展の遅れた国家においては貿易差額主義ははじめから有用なものとはなり得ない。この欠点を解消しつつ自国の富を増大させるのが産業保護主義である。産業保護主義においては国家の保護のもと、商業および農業の発展を目指す。これにより直接的に国家の富が蓄積されるのみならず、貿易の増大に寄与することで国家の富の蓄積へと向かっていく。

 

以上の政策は積極的に国内経済に国家が介入していくものである。この政策への反対論として自由放任主義などが発生していくことで、現代につながる経済学が成立していく。学問の成立以前にはこのレベルの話も画期的なことであったのだろうと思うと時代も変わったものだと感じる。

プトレマイオス朝という魔境

突然だが紀元前エジプトと聞いて何を思い浮かべるだろうか。ピラミッドやエジプト神話、そして多くの人はクレオパトラを思い浮かべるのではないか。今回はそんなエジプトを代表するクレオパトラの家系である王朝、プトレマイオス朝の現代人感覚から見た常識とのギャップを書いていきたい。

 

まずはこのプトレマイオス朝について簡単に説明する。そもそもこのプトレマイオス朝エジプト人による王朝ではない。「クレオパトラはエジプト顔をしていない」といった話が示すように、プトレマイオス朝の支配者はマケドニア人である。要するに、あのアレクサンドロス(バンドではない)の後継者が建国した国家である。エジプトはアケメネス朝による征服以来外来民族の支配下に置かれており、この流れでアレクサンドロスの後継者(ディアドコイ)であるプトレマイオスがエジプトを支配し王位を宣言したことでエジプトにプトレマイオス朝が成立したのだ。(余談だが、エジプトをエジプト人が再び統治するのは遠くのち、イギリスから独立し、主権を回復するのを待たなければならない。)

 

と、ここまではある程度まともな話をしてきたが、プトレマイオス朝が面白いのはあまりにもまともではない(少なくとも現代の価値観においては)部分である。プトレマイオス朝の何がそんなに面白いのか。それはこの王朝が近親婚に執着する点である。

 

とは言ってみたものの、ある程度の近親婚であれば一般的な王家においてもよくみられるものである。世界中でいとこ婚はよく見られるし、日本においても天武天皇はしっかり姪と結婚している、うらやましい

しかしプトレマイオス朝は違う。以下、各ファラオの妃として血縁関係にあるものを列挙する。

プトレマイオス4世…妃アルノシエ3世が両親一致

プトレマイオス6,8世…妃クレオパトラ2世が二人とも両親一致

(念のため注釈を加えると、6世と8世は別の人物である)

そろそろしつこいので、きょうだい婚をしているファラオについては以下列挙するのみとすると、プトレマイオス9,10,12,13,14世がきょうだい婚をしている。6世以降に関して言えば、統治期間の存在が疑われている7世、および後述する11世、ローマに擁立された15世以外はすべてきょうだい婚をしていることになる。なおこれは形式上の結婚ではなく、かなりの確率でしっかりと跡継ぎを残している。

 

ここまででも十分に驚くに値するが、最後に「近親婚」という形に執着したプトレマイオス朝で最もとんでもない結婚歴を持つ女性を紹介する。それがベレニケ3世である。

ベレニケ3世はプトレマイオス9世の娘であり、その弟であるプトレマイオス10世と結婚した。ここまで見るとただの(ただので済まされるのか)叔父との結婚である。しかし、ここからがプトレマイオス朝である。

プトレマイオス10世の死後、ベレニケ3世の父であるプトレマイオス9世が復位するのだが、その際に父である彼と結婚し、共同統治を行うのである。(共同統治を行っていないという説もあるが、ここでは共同統治を行ったという説に従う。)形式上の結婚であり肉体関係が存在しなかった可能性は高いだろうが、プトレマイオス朝のことなので正直なところ否定はし切れないようにも思う。

さらにベレニケ3世の生涯は続く。プトレマイオス9世の死後単独統治者となったベレニケ3世であったが、ローマの支援を得た息子のプトレマイオス11世の帰国により、なんと彼と強引に結婚させられてしまう。と言ってもさすがにこれについては形式上の結婚であり、結婚の19日後にプトレマイオス11世の手によって彼女は暗殺される。

以上のように形式上の結婚があるとはいえ、ベレニケ3世は叔父、父、息子と結婚したことになる。まさにプトレマイオス朝を代表する人物である。

 

で、これほどプトレマイオス朝が近親婚にこだわった理由だが、エジプトの慣習を踏襲して神格化を図った、という説と王朝の血縁関係を強固にし基盤を固めるため、という説が挙げられている。おそらく双方ともある程度理由にはなっているのだろう。ただ、これほどまでにこだわったはいいが結局王朝は兄弟姉妹の内紛で弱体化してしまうし、神格化についても近親婚を始めたあたりから反乱は多発しており、効力があったかといえば少し疑問である。結局のところ、後世に「とんでもない近親婚王朝がある」といった認識を残す程度に終わってしまったような気がして少しもの悲しい気持ちになる。

初期の前漢は「中華帝国」なのか

ブログを始めたがテーマが見当たらない、ということで最近触れていなかったが世界史について少し書いてみようと思った。

 

今回は特に日本人が偏見を持ちがちなように感じる前漢成立期について書いていきたいと思う。

 

前漢成立期といえば何を思い浮かべるだろうか。おそらく劉邦(りゅうほう、幸○の科学のあの人とは関係ない)による「中華帝国」の成立というのがおおまかな印象なのではないか。確かに前漢が中国全土を支配する体制をおおまかにとはいえ調えたことは間違いない。しかし、これはあくまで現在の「中華」という枠にとらわれすぎた見方だろう。前漢成立期においては「中華」という枠は必ずしも「漢民族世界」とは一致していない。このため、より広い視野で前漢成立期をとらえるのが妥当な見方なのではないかというのがこの記事の趣旨になっている。

 

なぜ「初期の前漢中華帝国」という点に疑問が残るのだろうか。この鍵となるのが北方騎馬民族匈奴の存在である。世界史の教科書において、このような記述を見かけたことはないだろうか。

 前200年、匈奴冒頓単于前漢劉邦を白登山の戦いで破り、匈奴に有利な条件で講和した。

一見すると遊牧民が中華世界の領域内に侵入し、中華世界の支配者たる漢王朝から譲歩を引き出したかのように思える記述である。中国を中心に据えればそのような解釈になるのが普通だろう。しかし、このとらえ方は実際のところあまりに東洋史を中国史的に解釈しすぎであるような気がする。ではどう解釈するのが現状に即しているのか。それは、「ユーラシア東方の覇者である匈奴に中原を支配する劉氏が従属した」といった解釈である。

 

それではあまりに匈奴に対して贔屓目すぎる、という意見もあるかもしれない。しかし考えてみてほしい。当時の前漢匈奴に対して「譲歩」といえるほど匈奴に勝るような国家だったのだろうか。答えは否である。

第一にこれら2国の国力を比較すると、匈奴に分がある。前漢は「中国」を統一したとはいえ紀元前ごろは発展した領域は後代に比べると限られており、現在の我々が想像するような北方との生産性の差は比較的小さかったはずである。一方の匈奴モンゴル高原のみならずその影響範囲を西方のオアシス都市にも広げていたとされる。「遊牧」という言葉からは想像もできないほどの経済力を有していたことは想像に難くない。

第二に両国の指導者の資質の差が挙げられる。前漢を統一した劉邦は、後世では「人たらし」として有能な人材を配下に置き漢王朝を成立させた、とされている。そのイメージを否定するわけではない。しかし、統率者としての能力はいかほどか。詳細は割愛させていただくが、先述の白登山の戦いについては、前漢の歴史書の『史記』においてさえ大敗したエピソードがはさまれ、その無能さが記されている。本来王朝の創始者について悪く書くはずのない正史でさえこの有様である。実際にはより統率者として能力が低かったであろうことは容易に推測できる。一方の匈奴単于冒頓単于はほぼ独力で東胡、および月氏に圧迫されていた匈奴を隆盛に導き、東胡を滅ぼして月氏を西走させた人物である。両者の力量差は歴然としている。

 

以上のことから前漢匈奴に従属していた、という推論がある程度の根拠を持つと言える。このことを頭におくと、初期の前漢は「中華帝国」に当たらないという論もある程度妥当なように思えないだろうか。「中華帝国」は周辺諸国中華思想の影響を及ぼすことが定義の一つである。はたして匈奴従属下の漢にそのような力はあったか。

実際に漢を「中華帝国」と認めてよいのは国力を増し、匈奴を追いやった武帝以降だろう。

 

長々と書いてきたが、結局のところ現在の東洋史においては中国中心の歴史観がはびこっていることで実情からずれた歴史解釈が多くなってしまっているのがこの記事を書いたきっかけである。ぜひ世界史に触れるときは、教科書の記述も一度立ち止まって、「漢民族の視点」以外の視点から歴史をみることもしてほしい。

 

今回は若干堅めの内容になってしまったが、次回は緩めにプトレマイオス朝でも書いていきたいと思う。